この「Room 間」は当然ながらMaである——そう、あの翻訳不可能な Ma。This ‘Room 間’ is, of course, Ma space-time ——yes, that untranslatable Ma.
友人マイケル・ディアスは彼のスタジオで、そして私は小さなスペースで、それぞれにドローイングをて、同様に翻訳不可能性を見出している。それが我々の語り合いの根底にある。My friend, Michael Diaz draws in a studio, and I draw in a small space, and commonly find the untranslatability in what we do. That is the basis of our dialogue.
Utako:
The attached are pages that introduced me to the study of Zen about 10 years ago; at that time, as part of a more philosophical investigation rather than a spiritual one. The title of the book, and the way it’s written would indicate that. Yet, the spring is almost here, I feel like sharing it with you!
10年前に、私が禅を学ぶきっかけとなった本の抜粋を添付します。当時は、精神的な探究というよりは、哲学的な探究の一環として学んでいました。そのことは本の題名や書き方にも表れていると思います。とはいえ、春はすぐそこですね。一緒に分かち合いたい気分です!
Michael:
… And, thanks for Izutsu’s pages. There are so very many ways to honor, no? These writings are certainly one approach. They remind me of your expressed notion of the untranslatable. And, of course, the spaces in between. I’ll text you a short piece by Wes Mills which, I think, is a beautiful expression of this understanding.
… それから、井筒〔俊彦〕の本の抜粋もありがとう。ものごとに敬意を払う方法はいろいろあるよね? これらの文章はたしかにひとつのアプローチとなりうる。あなたの言う「翻訳不可能性」の概念を思い起こさせるよ。それから、もちろん「間」のことも。ウェス・ミルズの短い文章を携帯から送ります。おなじ内容を美しく表現した言葉だと思う。
Regarding the images I sent you, those drawings are inchoate. The beginning, the ending the in-between.
送った画像についてだけど、あのドローイングはいずれも完成途中のものです。はじまり、おわり、そのあいだ、にあるもの。
[The above vertical drawings: with oil stick (one with pencil) on Strathmore paper, sized in 18″ × 24” ]
[The above horizontal images: with oil stick on Strathmore paper, sized in 24″ × 18”]
Michael:
This quote is from a little book that Wes hand made many years ago. It has several drawings from his Montana life close to the Bitterroot River. And it ends with this note.
この言葉は、ウェス・ミルズが以前、手作りした小さな本から引用したものです。この本には、彼がモンタナ州のビタールート川の近くで暮らしながら描いたドローイングがいくつか掲載されています。そして最後に、次のようなコメントがついています。
ビタールート川に沿って生える背の高い草むらを通り抜けると、足もとで朝霜が音をたてる。川縁のこの場所に、私はよく足を運ぶ。岸辺に寄せたり返したりする、穏やかな水の動きに心動かされる。岸辺に水が繰り返し打ち寄せる音は、二つの極のあいだの空間を一時的に形づくるようだ。私はすぐにドローイングのことを考えた。というのも、ドローイングについてもそうなのだが、二つの空間の「あいだ」に存在するものこそが、私を川縁のこの場所に引き寄せているからだ。私は期待すること、行ったり来たりするものの存在を忘れる。その瞬間、水ぎわはドローイングのように、すべてを包み込む力をもつことに、私は気づく。
ドローイングをめぐるメモ 2001年11月