1本の線の中に内在するもの
text by
中尾 英恵
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ある対象をうつす
物の形や姿をうつす
万物を照らす太陽の光と影
都会にある小さなマンションの1室にある白壁に映し出される灰色の濃淡による、陽の移ろい。部屋の形、窓の大きさや向き、カーテンの開き具合、隣の建物、雲の動き、様々な影響関係によって、白壁に作り出される豊かな灰色の濃淡は、何かの物の形や姿を映し出すものではない、太陽の光であり影であり、その一体である。太陽の光が地球上に到達した痕跡に見出される微細な変化の中に存在する豊かなニュアンス。それらは、自然から遠い場所とされる都会のマンションでも感じることができる、社会的な生き物から解放され自然の営みの中で生かされている存在としての私であり、自然の営みが作り出す無限の美しさではないだろうか。
これまで進藤が取り組んできた「映す/写す/移す」ことによって、こぼれ落ちるものたち。それは、大きな物語では語られない無数の小さな物語でもある。そのような小さなもの、微細なものの内に存在する、彩り豊かなグラデーションは、目を凝らさないと見えてこない、認識できないものである。並行して、長い時間をかけ、進藤は「風景や場に潜在的にあるもの」を捉えようと試みてきている。この「うつす」ことと「内在する」ものは、別々に独立して存在するのではなく、相互に影響を及ぼしあう関係性の中にあって、目に見えないレイヤーと微細なグラデーション、ときに隔たりを生み出している。
こぼれ落ちるもの、翻訳不可能性、内在するものへの関心は、白い紙に引かれる線による白であり黒であり、白でも黒でもない灰色の濃淡へと帰着した。進藤は、墨の濃淡、それ自体による光や影の表現の可能性に、「際限なくニュアンスに満ちた、〈色のない色〉、モノクロ、中性の状態や空間を示す「shimmer」[1]を発見したのであろう。それは、「ドローイングそのものが影になりうるか」という問いでもある。
1本の線、線のための線を引くことによって創られる対象物がなくなったこれらの作品では、様々な二項対立を超越し、ただ、その間に存在する無限のグラデーションだけが存在する。形態のない世界に溶け込むように入っていく行為は、母性や命のような長大なものに包まれる感覚を呼び起こす。光ではなく影への関心、それは、光は根源的な生と結びつくものであるが、進藤は、微細なニュアンスが織りなす静寂な影の中に、生身の生を見出しているのではないだろうか。
溢れ出る好奇心を原動力として、飛び回るように、数々のテーマを追い求めてきた進藤の活動、それら、ひとつ一つが、形あるパーツとなり、ジグソーパズルのそれぞれのピースのように組み合わさった様が、アメリカ研究後の活動に見出される。と同時に、新たなる旅の幕が明けたような、そんな気配を感じる。
[1] Roland Barthes, The Neutral: Lecture Course at the Collège de France (1977-1978). Trans. Rosalind E. Krauss and Denis Hollier. New York: Columbia University Press, 2005, 51. 、進藤詩子訳、第2回表象文化論学会オンライン研究フォーラム2020配布資料