影の方へかがみこみ:
のびゆく のこりゆく 線は
text by
リンダ・スワンソン
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進藤詩子の作品について考えるときに私が思うのは、制作している間の彼女である。墨を筆につけ、呼吸をしながら身体の状態を整えている間があり、それから、紙の面へ向かい共に伸びて広がってゆく間までを想像するのだ。思い浮かぶのは決して静止したイメージではない。このように書いている間にも、私の中に谺しているエッセイ[1]がある。ジョン・バージャーがアーティストのヴィヤ・セルミンスについて書いたもので、ドローイングの上に身をかがめ制作しているヴィヤの粘り強さが、彼方からの“報せ”を待ちながら織り機で編んでいるギリシャ神話のペネロペと比較されている。隔たりという間が無となる程までに気持ちを注ぎながら、物語の線を織っては解いてを計略的に繰り返すペネロペに対し、ヴィヤは一枚の画像を完成させる。それらと同等に傾注された詩子の作品は、とりわけ、彼女もまた紙の上にかがみこみ、その手が線を留めず面に動かしてゆくという点において、その両者であると言える。
まずひとつ言えることは、「それを見ようとしている」という状態が、進藤詩子の作品に対面する私の内面に生じるということだ。なにも面白く語ろうとするでも、明らかな事実として語ろうとするでもなく、彼女の作品の喚起する特有の広がりに対して深く注意を向ける必要性を伝えるために。彼女の作品を見るということは受動的な状態ではなく、むしろ、その語のあらゆる意味で感覚を張りつめ、研ぎ澄ませる行為ですらある。眼球の筋肉が伸びるような張力を感じ、また彼女の残した跡を通してもたらされる緊張があるのだ。見るためには能動的にじっと目を凝らすことが求められる。なぜなら作品が実在している場所とは、価値の微細な変容によってもたらされる知覚の閾であるからだ。そして、墨が紙の内奥へと沈みこんでいくように存在している。目の前で明らかにされながら、また同時に明らかに示されないという、あやうさがここにはある。それに気づくや否や、消え去ってしまうかのような。これは通常のアーティストの行為とみさなれていること、すなわち光の下に表出し、表明し、像を形にし、たとえ、特に表象と呼びうるものではないとしても、我々に何かを示すということとは対極にある。進藤はそうはしないが、像でも抽象でもなく、このような線の通り道を提示する。既に存在していたのかもしれないが、今この瞬間消え去りつつあるような道である。私が長い間見つめれば見つめるほど、それらは消え去るように思える。線の反復によって存在が確かめられるにもかかわらず、それらが離れ去ってゆかぬよう感受しようとする。再びバージャーの言葉を引くと、「ドローイングをするということは見るということである…木のドローイングとは、木そのものではなく、いま見られているところの木というものを示すのである。」[2]とある。この定義から進藤の作品と共に一歩進めるならば、ドローイングが示すのは、いま見られているところの木ではなく、いま見えないでいるところの木なのである、とは考えられないだろうか?たとえこのように言えるとして、バージャーの定義とさして相違わないのかもしれないが、それでもドローイングは視覚能力によって導き出されるものではないと、私は考えるのだ。一体、木は、あるいは進藤の作品における線の反復は、私たちがそれを見つめているところの “外部に - 前に - 超えて” いかに視覚において存在するのだろうか?それになるということと、ならないということ。紙の上で生じさせ、しかもイメージあるいは痕跡が生じないとは、達成不可能な事にも思えるのだが。
かつて彼女が木のドローイングを制作したことがあるとはいえ、木を描くペインティングが彼女の遊工房におけるアーティストレジデンスのプロジェクトではない。しかしながら、彼女の作品は周辺環境の状況に対応した具体的な相互関係を生むものなので、彼女のスタジオは(ここに限らず他のアーティストレジデンスにせよ、あるいは東京の自分の家にせよ)カメラ・オブスクラとは異なる種の装置となる。彼女の個展のインスタレーションを遊工房において直に体験すれば、それは分かるだろう。先日zoomを通してスタジオ訪問をさせてもらった際に、詩子は磨りガラス窓を通して浮かんでいた木々の姿を窓を開けて私に見せてくれ、それがモクレンの木の冬の風にねじれた枝であったことがわかった。その下に広がる中庭では、幼い少女が祖母と共に時々遊んでいるのだと彼女は教えてくれた。祖母は子供の遊び机の上に身をかがめて一緒に絵を描いていることがあり、その幸せそうな様子が彼女のいる上の階にまで上って伝わってくるらしい。彼女は私自身がその様子を“見える”ようにするためか、あるいは単に彼女自身がその喜びを体現しようとしてか、自ら低くしゃがんで、想像上のその情景へ体をおりまげて前方へかがみ込み、満面の笑みを浮かべて見せた。そうしてそれを見て伝染するように私もまた、笑顔になった。このように、私達の身体は外界を収集し、表現し、経験するのための集約する器となる。もし身体が彫像のような一塊りの物質にすぎないならば、そんなことは可能になりようがない。今回の展示『Meeting and Greeting Like Shadows』[3]におけるインスタレーションでは、低いスツールの上にドローイング作品が数点設置されている。彼女によると「微妙な光がその上に降り込むように」、さらにその上を私達が近寄ってかがみこみ、作家の制作時の姿勢をとって見ることが可能になっている。「低い姿勢のままで…座ったり、かがんだりしながら見ると」と詩子が自ら実際にやってみせ、「親密な間を保つことができる」と示したままに。
2階建ての遊工房のスタジオにある他の窓を透かして入ってくる、徐々に薄くなりきえてゆく朝焼けの空の色、勢いよく登って来る太陽の姿や、時折とびこんでくる木々の枝の動く線を目で追うことができる。進藤はその空間に対して、光、空気、時間といった天候の条件に加え、その場の歴史の記憶の気配をも鋭敏に察知していた。治療と回復のための建築であるサナトリウムとしてその構造は造られていた。(幾分皮肉なことに、結核はアーティストに縁の深い、クリエイティブで繊細な精神が罹りやすいとみなされていたものだが。)彼女はしばらくの間そんなエピソードの投げかける影にも反応していた。このかつては診療所の寮の中では、彼女は落ち着かない時もあったが、休息しながらじっと観察をしているうちに「この建物は人々を治癒する目的の施設であった。」ということを実感したのだった。さらには、工房の近くにある大きな池によってもたらされる大気と光の効果によって、近隣一帯のすみずみまで清められるような気配が充ちているということにまで、彼女の話はひろがっていった。磨りガラスの窓、紙の白さ、建物の歴史、あたりを潤している水分。ここでスクリーンとして映し出すものたちは、光り輝く境界と同時に、多孔質の隙間を差し出している。墨の寄せて触れてゆく線の、表面を渡ってゆく運動を、彼女自身は影と名付けたが、それを登記しつづけるところのドローイングとは、見ることと見ないことの間の、また、記憶することと忘却することの間の閾である。
肺のX線画像において影は疾患を現すが、絵画においてはその起源だという。恋しさのあまりに愛する者の影をなぞり残されたものがはじまりであるというのだ。肉体という物質的実在から生まれ、時間と空間においてそれ自身を超え、その先へと長く遠くへ伸びてゆき、過ぎゆくものや消えゆくものを記録するという痕跡であるもの。すなわち影とは投影されたもうひとつの存在である。自分自身の肉体を超えた存在の証しである。すなわち影とは肉体に宿った存在と外界との間の継ぎ目で現象するものである。ピーターパンは彼の失われた影を取り戻そうと躍起になったものだし、また、ある複数の民話伝承によれば、吸血鬼は影がないということだ。影は魂のこもった存在の証であるのだから。
進藤のペインティング−ドローイング作品は、彼女の身体において生み出され、それ自身を超え、線として投影されたものである。影のように、それらはうつろいながらも調子は整えられ、持続の中で記録し続け、物質に拠って外部へ流れ出し拡がる。筆と墨の特質によって、線はひろがりを持ち、凝集性は緩められる。そう、まるで影のように。長く伸びるというのは、光と時の折り返す際にたそがれる、影の性質である。長く残るというのもまた、身体を通した経験の記憶の中へ移りゆく際に残響する、影の性質である。今回の展示のインスタレーションにおいて、進藤詩子はこれらの影の性質のように、過ぎゆく道程の美しい儚さを、わたしたちに引き出しているのである。
(翻訳:水野妙)
[1] Berger, John. The Shape of a Pocket. New York: Vintage, 2001. Print. “Penelope.” 45-48.
[2] Berger, John. Berger on Drawing. Occasional Press, 2005. Print.
[3] 芸術家アグネス・マーティンへの敬意を表し、進藤はマーティンの詩:『友人と私』(新聞紙『El Crepúsculo De La Libertad 』(ニューメキシコ、タオス発行)に1958年9月11日付で掲載)の中の「…私たちは影と影が出会い、挨拶を交わすように、出会い、挨拶を交わす(…We meet and greet like shadows meet and greet…)」をパラフレーズして今回のタイトルに使用している。